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「世界遺産で戦う子どもたち」(ソトコト 2009年6月号)

ウガンダ軍ヘリ

バリバリバリバリ――。鼓膜を殴られるような特有の激しいローター音が少し弱くなると、私の乗ったウガンダ軍ヘリは、眼下に広がる世界遺産・ガランバ国立公園の森を切り開いて作られた50メートル四方のスペースに急降下した。

機体の両側に備えられたドアが開くと、最前線で戦う汗と垢にまみれた兵士たちが目を血走らせ一斉に飛び込んで来る。

「ハラカ、ハラカ!!(スワヒリ語で「急げ」の意)」。地上にいるヘリは格好の的になるため、大尉が怒鳴り声をあげ大きな身振り手振りで作業を急かす。

内部に積み上げられていたトウモロコシの粉や豆が入った80キロの麻袋が次々と運び出されていく。わずか数分で30近くあった麻袋は運び出され、代わりに負傷した兵士が続々と乗り込んできた。と、ボロボロの服をまとった10歳そこそこの少年が二人、手にしたペットボトルの水を大切そうに抱えながら兵士たちに押し込まれてきた。その表情は明らかに恐怖と緊張で硬くなっており、目の動きも定まらない。それもそのはず、彼らはつい前日まで、悪名高いウガンダの反政府組織・神の抵抗軍(LRA)の一員として戦っていたゲリラ兵士だった。

かつてザイールと呼ばれたコンゴ民主共和国(DRC)にあるガランバ国立公園は、同国北東部、スーダンと国境を接する高ウエレ州(旧オリエンタル州)にある。総面積4920ku(福岡県とほぼ同じ大きさ)、海抜710メートルから1061メートルに位置するその大地はサバンナと深い緑の拠水林に覆われ、アフリカゾウやキリンなどの大型ほ乳類を始め多くの野生動物が生息しており、1980年UNESCO(国際連合教育科学文化機関)により世界遺産に登録された。

準絶滅危惧種に指定されているシロサイの亜種キタシロサイの貴重な生息地としてその名は知られているが、DRC自体の政情不安に加え隣国スーダンの内戦時に難民・反乱軍兵士が流入し森林伐採を行ったり、商用・食用を目的とした密猟者が跋扈し、1960年頃2万頭強いたアフリカ象が約1万頭、1000頭ほどいたキタシロサイがわずか4頭(2006年時点)になるなど、深刻な環境破壊により2005年の委員会では世界遺産からの登録抹消も検討された。

幸い登録抹消にはならなかったものの危機遺産として登録されており、現在もLRAを掃討するためウガンダ・DRC・スーダン南部自治政府の三国による合同軍事作戦「Lightning Thunder Mission」が行われ、空爆や戦闘により環境破壊が進んでいる。

6万6千人。

2007年に出された世界銀行のレポートで発表されたLRAに誘拐されたとされる子どもたちの総数だ。LRAによる誘拐は、ただの誘拐ではない。子どもたちは暴力と恐怖により洗脳され、兵士として戦場に送り出されたり、少女の場合は本人の意志に関係なくLRA高官の妻や戦功の報酬として物のようにやりとりされる。その残虐非道な行為は世界的にも大きく非難されており、2005年10月、ICC(国際司法裁判所)は、人道に対する罪などによりリーダーのジョセフ・コニーを含む幹部5名に対し同裁判所初となる公開逮捕状を出した。中でも私が取材していて最も残酷だと感じたのは、相互監視制度だった。

「この傷は同じ部隊で戦っていた子たちに斬りつけられてできたんだ。僕たちの部隊ではお互いがお互いを監視しあっていて、誰かが脱走したり何か良くない行動をしたら、全員が体罰を受けたり見せしめとして誰かが殺されるんだよ。だからみんな、自分以外の誰も信用できなかった。僕は一人で脱走しようとしたんだけど、それに気づいただれかが大人の兵士に密告したみたい。捕まった後、部隊の中から選ばれた子たちの手で、見せしめに処刑されることになったんだ。この傷はその時にパンガ(アフリカの鉈)で殴られたものだよ」。

瀕死の状態でブッシュに倒れている所を偶然政府軍に救出された少年(当時12歳)の頭頂部には、深く刻まれたパンガの跡がくっきりと残り、その幼い顔立ちに不釣り合いな能面のような表情と、死んだ魚のように輝きを無くした瞳は、彼の心が未だ閉ざされていることを如実に物語っていた。さらに残念なことにウガンダ北部では、その少年の経験は特別なことではない。

LRAの取材を2000年に始めてから100人近くの子どもたちに話を聞かせてもらったが、少年同様、どの子どもも私には想像できない、酷く恐ろしく悲しい体験をしていた。「銃器の扱いを教えられた後、自宅に連れていかれ自分の両親や近隣住人を殺すことを命じられた14歳の少年」。「行軍中、自分の姉が複数の兵士にレイプされ殺される所を見せられた12歳の少女」。「食糧難で母乳が出なくなり、生後2ヶ月の赤ん坊を飢死させた15歳の母」。

「人間とはここまで醜く残酷になれるものなのか……」と、私は自分が人間であることを呪いたくなった。

LRAは霊媒師を名乗るリーダー・ジョセフ・コニーが率いるアチョリ族が主体となった反政府武装勢力であり、独立以来繰り返されてきたウガンダの権力闘争により、生まれてきた組織だ。

17世紀後半、ウガンダ北部に定住したアチョリの人々は肉体的に恵まれた狩猟民だったため、イギリスによる植民地支配時代には軍人としては重宝されたが、ウガンダが独立国家となった後は政治力の弱さから政権の中枢部に入り込めず、度重なる虐殺や迫害を受けてきた。

1985年、待望のアチョリ族出身のテト・オケロ陸軍司令官が政権の混乱を縫い大統領となるも、わずか半年後に現大統領のムセベニ氏率いる国民抵抗軍のクーデターでその座を失ってしまう。そしてこの時、LRAの母体でもあり20年以上に亘るウガンダ北部の紛争要因でもある聖霊運動(HSM)が生まれた。

HSMはコニーの従姉妹であり霊媒師を名乗るアリス・オウマが、彼女の父が教祖を務めるキリスト教系新興宗教・ワールドメルターを基に起こしたアチョリ族の復権運動だった。

一時は首都カンパラに迫るほどの快進撃を続けたHSMだったが、1987年11月に大敗北を喫し、アリスはケニアに逃亡し組織は壊滅。その後台頭したのが聖書と十戒を基に国造りを掲げ、アチョリ族の復権を目指すコニーが指揮するLRAだった。

しかし長引く紛争と政府の戦略により一般アチョリ族の心はしだいにLRAから離れていき、それを感じたコニーは、「LRAに協力しないものはアチョリ族ではない」と宣言し、同胞の住む村を襲い略奪や残虐行為・子どもの誘拐を行うようになった。さらに当時ウガンダ政府と関係が悪かったスーダン政府の援助もありLRAは急速に勢力を増すも、南北スーダンの対立が和平を迎えウガンダ・スーダンの国交も正常化すると、徐々に弱体化が始まっていった。

そんな中、2006年7月に始まった和平交渉は、LRAが後ろ盾を失ったこともあり、和平に向けた最大の好機だと期待されていたが、ICCの逮捕状取り下げなど和平合意に際し無理難題をコニーが要求し続け、2008年12月、ウガンダ政府はLRA殲滅のため「Lightning Thunder Mission」を開始したのだ。

現在グルを始めウガンダ北部からLRAの脅威はほぼ完全に消え去り、多くの国際機関やNGOなどが20年以上続いた紛争による傷を修復すべく復興活動にあたっている。ウガンダ軍ベースキャンプで「Lightning Thunder Mission」の指揮を執るパトリック准将によると、今のLRAの戦力は大人の兵士が300人程度。誘拐され兵士として戦わされている子どもも恐らく300人。そして大人兵士の家族と兵士としてではなく使役させられている子どもが400人ほど。それが現在のLRAの全戦力であり、組織の壊滅とコニーの逮捕は間近だという。

今回の取材中、戦闘で負傷し政府軍の捕虜となったLRAのナンバー4・トーマス・クウェロがベースキャンプに搬送されてくる現場や、押収されたLRAの基地で使用されていた備品、子ども兵士が戦闘中に使用していた自動小銃を見る機会があった。

トーマス・クウェロの痩せこけた体。キーボード部分がボロボロに壊れたPC。引き金を引いたら暴発するのではないかと思うほど古ぼけた銃弾の入っていない子ども兵士が使用していた自動小銃。LRAが末期的な状況にあるというのは目に見えて明らかだった。

しかし組織壊滅の瞬間まで予断を許さない状況であることも事実だ。活動拠点をウガンダから隣国に移したLRAは、DRCで昨年の12月以降900人以上を殺害し、スーダン・中央アフリカでも襲撃・誘拐を繰り返している。

私がガランバ国立公園内のウガンダ軍ベースキャンプで出会った救出直後の子どもたちは全部で6人。その国籍はウガンダ・DRC・スーダン・中央アフリカと多岐に亘った。ただ、今まで取材をさせてもらった子ども同様、喜怒哀楽の表現方法を忘れた表情と、薄く白い膜がはったような生気のない瞳だけは共通していた。

現在、世界で戦い続けている子ども兵士は約25万人。一年間に失われる森林は、約1100万ヘクタール。例えLRAが壊滅しガランバ国立公園に平和が戻っても、地球上にはまだ多くの負の連鎖が続いている。人類はこのまま自らの住む大地も、未来を担う子どもたちも破壊し続けていくことしかできないのだろうか。

【ソトコト未掲載写真】Vincent Ottid直筆文書

Vincent Ottid直筆文書

私が現地に滞在中、元LRAナンバー2だったビンセント・オッティーの部隊がウガンダ軍に殲滅され、そのキャンプから多くの物資が押収された。
これは、その中にあった、オッティーの直筆文書。

2006年6月から南スーダンの首都ジュバで行われていたウガンダ政府とLRAの休戦および終戦をめぐる話し合い「Juba talks」。2008年4月に物別れに終わったが、水面下で様々な交渉が行われていた。

この文書もその一つ。2007年5月に南スーダン政府からLRAに届いた「女性と子どもの開放要求」に対するオッティーの返信文書。

条件付きながらも「女性と子どもを解放する」とオッティーの署名入りで記されている。

しかしこの文書は南スーダン政府に届くことはなかった。

「Juba talks」において穏健な言動を繰り返すオッティーに激怒したLRAリーダー・コニーにより、2007年10月、オッティーは殺害された。