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Child Soldier

社会新報 '04年 6月23日号より(第3回)

リード

貧困が敵意を生み、苦しみと悲しみが憎しみを育てる――。ウガンダ北部で生まれた人々は、否応なく負の連鎖に巻き込まれている。そして現実に、いまこの瞬間も、LRAに誘拐されている少年少女たちは、その小さな腕で冷たい銃を抱きながら、ブッシュの中で飢えと恐怖におびえている。

本文

「あまり思い出したくないけど、Lord's Resistance Army(神の抵抗軍・以下LRA)の兵士だった頃、僕もほかの子どもを誘拐したことがあるよ……。村を襲う時、僕たちには2人以上の子どもを連れてくるノルマがあったんだ。達成できないと体罰をされちゃうから、僕も……。だから、これから一生懸命勉強して盲学校の先生になって、僕と同じように盲目で苦しんでいる子どもたちを助けたいんだ」

2003年12月。ゆっくりと噛みしめるように、私にそう語ってくれたマイケル(仮名・当時18歳)から両目の光を奪ったのは、左頬から入り右眉付近に抜けた弾丸だった。

1992 年。当時7歳だった彼は、突然自動小銃を手に現れた兵士に授業中の学校から拉致され、その後スーダン領内で強制的に兵士としての訓練を受けさせられた。以来10年間、ブッシュで寝起きをし、銃を手にスーダン・ウガンダ国境を行き来しながらウガンダ政府軍と戦っていた彼だが、2002年夏、戦闘で全身に15 発の銃弾を浴び、瀕死の重傷を負ってしまう。

「あまりの痛みに気絶しちゃったみたいで、気がついた時には周りに誰もいなかったんだ。みんな撃たれた傷を見て助からないと思ったんだろうね。僕は、まだ生きてたのに…。ほんと、ひどい話だよ。でもそのおかげで政府軍に助けられて、こうしてココにいられるんだけどね」

微笑さえ浮かべながら、辛い経験を淡々と語ってくれた彼だが、その顔と細い腕には生々しい銃弾の痕がくっきりと残り、7発もの鉛玉が集中した左足は骨が粉々に砕かれ、二度と自由に動かせない状態だった。

インタビューをすればするほど、私はマイケルの話に感動を覚え、「これから彼がどのようにして生きて行くのか?」それが、この不毛な戦いの出口を見つけるきっかけになるかもしれないと考え、長期的に彼を取材し続けようと決めた。

しかし今年3月、マイケルに会うのを楽しみにグルを訪れた私は、彼に会うことはできず、「マイケルは、あれっきり行方不明だ」と、ただ悲しい知らせだけを聞くことになった。

前回私がグルを去る日、人づてに「母親が危篤状態だ」との話を聞きつけた彼は、口々に「近くに政府軍が展開していない君の村は、いつ襲われてもおかしくない状況だ。いま帰るのは自殺行為だぞ!」と懸命に説得するリハビリセンター職員や軍関係者、そして友人の制止を振り切り、グル市から約60キロ離れた出身村へと、単身帰っていったのだ。

当然私も、彼を止めようとした。

「僕の家族は、もうお母さんしかいないんだ…。お父さんと3人の兄弟は、全員LRAに殺されちゃったからね。だからお母さんにも、もう僕しかいない。帰っても何も出来ないことは分かってる。でも、お母さんが少しでも楽になるように、ただ手を握っていたいんだ」

マイケルが光を失った目で、ゆっくりとみんなを見渡しながら、そう言った瞬間、もう誰も彼に「それでも村に帰るな!」とは言えなくなった。

現在、日本とウガンダの関係は、外務省やJICAを通して約420億円('99年度まで、外務省HPより)の援助を行い、2001年度からは海外青年協力隊の派遣も開始し、確実に関係を深めている。

しかし残念ながら北部地域は、四六時中LRAの脅威に晒されており、とても安全を確保できないため、直接的には援助できない状況だ。

悲しみと憎しみの連鎖に翻弄されるウガンダ北部のチャイルドソルジャーたち。私たちが彼らにできることは、何もないのだろうか?

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